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法華経第11「見宝塔品」の冒頭にはこんな譬喩が出て
きます。「そのとき、釈尊の前に地中から宝塔が現れ
た。その大きさたるや地球の三分の一。それはありと
あらゆる宝石で飾られ、四面からは世界中に栴檀(せん
だん)の香が放たれていた。」
原文ではその荘厳、絢爛豪華(けんらんごうか)さをこれ
でもかとばかりの幾重の文言で綴っている。この宝塔
こそが釈尊が表したかったことで、それが何なのかが、
その後の仏教者の最大のテーマになり、数多(あまた)の
曼荼羅が産まれることになります。
この、宝塔の尊厳さを表すものとして、仏塔を中心と
した仏教寺院(伽藍)も建てられていきます。
では、その中心となる宝塔とは何か。それは、あなた
自身、わたし自身であるという結論に至るのです。
「この世で、一個の人間こそ、尊くきらびやかなもの
は他にはないのだ」という「仏教の心」が、あの寺院
建築に表されています。
一方で神道は、伊勢神宮が一番質素です。
そんな伊勢神宮にこそ、「神道の心」があると私は思
っています。それが、形となると例えば、料理で高級
な食材やあらゆる香辛料を使ってできる中国や西洋の
宮廷料理ではなく、とことん素材の味にこだわる日本
料理のようなもの。
それは、自然に感謝し、自分の周りに感謝し、そして
自分が生かされていると考える心。神道に体系化され
た理論などはありませんが、そう感じ取りなさい、と
いうことでしょうか。
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