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世界遺産「隠れキリシタン」の真実②

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 7月15日(日)10時28分46秒
  そもそも何故日本でキリスト教が禁止になったのでしょう。その発
端はキリスト教側に問題があったからです。

〇1546年、フランシスコ・ザビエルは山川港に寄港していたポルト
  ガル船から日本布教に必要な情報を事前に得る。
〇1549年鹿児島に上陸し布教を開始。しかし、後に寺との軋轢を嫌
  った島津藩の協力を断られ、ザビエルは朝廷に直接布教の許可を
  もらうために京都に向う。その途中海路、島原や平戸などに立ち
  寄り、布教の拠点を作っていく。
〇ザビエル病死後も本国から宣教師が送られ続け、鉄砲や南蛮貿易
  を餌に諸大名が帰依したり、府内の布教を許可されたことで布教
  が進んでいく。
〇1563年、最初のキリシタン大名誕生。大村純忠(肥前=佐賀県唐津)
〇1587年に豊臣秀吉はバテレン(宣教師)追放を発令、諸侯がキリシ
  タ ンになることを禁じる。

ザビエルが鹿児島にキリスト教をもたらしてから、秀吉がバテレン
追放令を出すまでの40年足らずの間に、日本のキリスト教信者は九
州を中心に数十万人に及んでいたという。(17世紀初頭で30~75万人)

世に「1/3黄金率」というのがある。「その国に1/3の勢力がいると
その色に染まる」というもの。当時の日本全国の人口は推定1000万
位と言われるので、九州だけを考えると、3割近くになっていたので
はないでしょうか。まさに、日本がキリスト教国家になる寸前であっ
たわけです。

さらに、長崎は一時期キリスト教ポルトガル領となっていました。こ
れはキリシタン大名大村純忠が領土(長崎)を担保に教会から金を借り、
返済できなくなったからです。

でも、秀吉はそんな状況を恐れて「バテレン追放令」を出したのでは
ないようです。彼はキリスト教民族の恐ろしい実態を知ったからでし
た。(つづく)
 
 

世界遺産「隠れキリシタン」の真実①

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 7月 8日(日)10時54分36秒
  「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコ文化
遺産に登録されました。ただ、今一つ喜びが無いのはなぜでし
ょう。それは、キリスト教徒を弾圧した日本の負の遺産だから
でしょうか。
                   ・・・・・・・・・・・・
潜伏キリシタンとは、「日本でキリスト教が禁じられた17~19
世紀、表向きは仏教徒などとして暮らしながらひそかに信仰を
続けた人々。南蛮貿易の拠点となり、宣教師による布教が進ん
でいた長崎や、天草地方に多くいた。観音像を聖母マリアに見
立てたり、信心具を隠し持ったりしながら、集落ごとに独自の
信仰を維持していた。

 1865年、大浦天主堂で2世紀ぶりに信仰を宣教師に告白した
「信徒発見」は、宗教史上の奇跡の一つとされる。明治政府が
キリスト教を解禁した後も、カトリックに復帰しなかった人々
を「かくれキリシタン」として区別している。」(6/30時事より)
                    ・・・・・・・・・・・
世界遺産登録という一応おめでたい話の発端となった「豊臣秀
吉のバテレン追放令」。豊臣秀吉は「キリシタンを弾圧した悪
いやつ」という印象を教科書から学んだ私たちですが、事実は
その逆だったようです。(つづく)
 

サッカーW杯

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 7月 5日(木)18時32分22秒
編集済
  帰って来ましたね。成田で熱烈な歓迎を受けたようです。正午
のNHKラジオはニュース枠の中で30分間の実況記者会見をやっ
てました。

島津義弘と宮本武蔵
神道と仏教
二つの宗教が共存し合う不思議な国日本

最後はサムライらしく美しく帰って来ました。迎える国民も「
お疲れ様」と。

一方、日本対ベルギー戦を実況中の公共放送(韓国KBS)の解説者
が、日本が2ー3で逆転されたとき、「シャドリ、ありがとうご
ざいます。シャドリをなぜ(試合に)投入したのかとさっき(
言ったけれど)。非常に間違っていました。謝ります。ありが
とうございます。」と日本が負けたことに大はしゃぎしたとか。

そして、帰って来た韓国チームの記者会見では選手に卵が投げ
つけられもしました(下画像3)。

渡し難きかな彼の国、
天国にもっとも遠い半島です。

と、嫌な国だなぁと思うのですが、本日付け読売新聞によりま
すと、双方の友好ムードはやや改善しているそうです。中でも、
「相手国へ親しみを感じる」との答えは18~29歳の若者が、日
本6割、韓国4割弱といずれも世代間で断トツだったという。

うちの会社の若い子も韓国へのアレルギーはないのですよね。
大学で講師が韓国人で韓国へのゼミ旅行へも行ったそうです。
何も知らない無垢と言えばそうなのですが、韓国勢力の教育界
への懸念はさておいて。

都心で見かける観光客で東洋人の見分けはつかないのですが、
韓国の若い男性に関しては、髪が短く日本の流行とは違います
がコジャレていますのですぐわかります。ここのところ非常に
多いです。

お互い、いがみ合っていては何も始まらない。無垢に交流を深
めることが必要なのかもしれません。
 

サッカーW杯

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 7月 1日(日)10時59分12秒
編集済
  戦いを避け時間稼ぎをすることで勝利を手にした日本の戦略
をどう評価すればよいのか。

日本史が誇る二人の武者に答えを求めてみました。

①島津義弘
先述の島津17代当主です。朝鮮征伐で現地では「鬼島津」と
恐れられ、関ヶ原の戦いでは西軍の大将が敵に寝返ったり退
散する中、敵に無様な後ろ姿を見せたくないとする義弘は、
敵軍陣地の中央突破を敢行する。これによって当初1500人の
兵員の内、義弘以下数十名が生き残る結果に。この勇姿は敵
軍からも称賛されたという。

そんな義弘なら今回の西野Jの作戦はサムライの風上にも置け
ない所行となります。

②一方、もう一人の武者はそれと逆の立場をとるでしょう。
その人とは宮本武蔵です。彼は巌流島の戦いで、まさに今回
の西野Jと同じ時間稼ぎをして勝利を得ました。

オリンピックを意味する日本だけの言葉「五輪」、その語源
となった「五輪書」を彼は著しています。

五輪とは仏教で万物を構成するとされる地・水・火・風・空
や人間の五体(頭・両手・両足)のことです。仏教の命題は、人
がどこまでも生き抜いて、そして、幸せをつかみとる所にあ
ります。

宮本武蔵はあくまでも勝つことを優先させます。「死んで花
実が咲くものか」です。しかし、サムライは「武士は食わね
ど高楊枝」です。

島津義弘はサムライで、宮本武蔵は兵法家です。

どちらがいいかは判断の別れるところです。・・・なんて、
悠長なことは言ってられませんね。答えは明快です。

日本は、日本人の気質としてのプレイ(フェアプレー)のご褒美
として決勝トーナメントへの進出を手にしたし、それによって
現時点で13億円の賞金も確約されている。一方、反則の限りを
尽くす韓国はそそくさと敗退し、賞金も0円です。勝つとはそ
ういうことなのです。それが現実です。人が生きるとはそうい
うことなのです。

天はどちらを良しとしているのか、答えは明快です。

《最後に三浦知良氏のコメント》

「サッカーは5秒、10秒あれば1点入りますからね。セネガ
ルが点を取った瞬間、日本は点を取らないといけない状況にな
る。その中で、(ポーランドが)来なければ回すという勝負に
かけた。コロンビア戦もそうでしたけど、2-1になって自分
たちが余裕を持ってボールを回すサッカーができた。その積み
重ねで、ああいう時間の過ごし方ができたのでは。なかなかで
きる経験ではない。監督、スタッフ、スタンドの観客、テレビ
で見ていた人もみんなそういう経験をした。大きな日本の財産
になるんじゃないですかね。勝ちに本当にこだわったやり方。
いろんな選択があるなかで、あそこまでの選択があの瞬間でき
たなと。すごいと思いますね。」
 

サッカーW杯

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 6月30日(土)10時57分50秒
編集済
  さて、一昨日のサッカーW杯「日本対ポーランド戦」。スッキリと
した喜びがなかったものの、「勝ててよかった」というのが正直な
気持ちです。一方、世界からはブーイングの嵐だとか。

お隣韓国中央日報6/29の見出しです。
〇「ベスト16落ちでも拍手受けた韓国、ベスト16行きでもヤジ飛ばされた日本」
〇「韓国は美しい敗退、日本は醜い16強入り」
〇「英BBC、日本のレベル低い競技を指摘…世界的な笑い者」
〇「これがサムライ精神か…日本のボール回しに批判続出」http://japanese.joins.com/news/

今大会(予選)で全チーム中最もイエローカード数の多かった韓国が、
まるで鬼の首でも取ったような断罪報道を展開しています。

勝つためにとった日本の最後の一手が「時間稼ぎをしてフェアプレ
イ点で勝る」という何とも皮肉なものでしたが、素直に喜んでいい
のか、それとも断罪されるべきものなのか、ちょっと考えてみます。(つづく)
 

遠行

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 6月29日(金)22時18分21秒
編集済
  ところで、ラサールのカリキュラムを見ていましたら、12月に
桜島一週遠行というのがありました。

へぇー、「遠行」まだやってんだ。

遠行とは遠足の鹿児島だけの呼び名です。山川でも3月の遠足を
「別れエンコ」と言ってました。当掲示板2014年4月4日で触れ
ましが、その由来を再掲しますと、

戦国時代秀吉の朝鮮征伐で朝鮮からは「鬼島津」と恐れられ、
国内では戦国武将の最強軍団として秀吉に買われていた島津17
代当主「島津義弘」がいました。ですが、その人となりは、と
にかく家族思い、家臣思いで「常に民と苦楽を共にした名君」
だったようです。

例えば、家来に子が生まれると自分の館(やかた)に招き入れ、
自らの膝の上に抱いて「子は宝なり」とその誕生を祝い、島
津家の湯治場「吉田温泉(えびの市)」を無礼講で家来に使
わせ、寒いときは家来と一緒に囲炉裏(いろり)を囲んだ」と
いう。そうした配慮からか、「朝鮮の役では日本軍の凍死者
が続出していた中で、島津軍には一人も出なかった」といわ
れます。義弘が満83歳で逝去したときは、後追い殉死が13名
も出たそうです。

≪関が原の戦い≫
さて、島津を破って九州平定を完了し全国統一を果たした秀
吉でしたが、勢いに乗りすぎて朝鮮まで平定しようとしてい
る最中に逝っちまいます。そうしますと、豊臣政権下でくす
ぶっていた内部対立≪徳川家康を筆頭とする朝鮮出兵などを
手がける制服組(豊臣五大老)と、石田光成を筆頭とする政権
内部で実務を担当する背広組(豊臣五奉行)の争い≫が一気に
噴き出し、関が原の合戦となります。

一方、島津内においても対立があり、義弘は豊臣秀吉への恩
義から関が原では西軍に加担しますが、藩内では東軍の徳川
方に付く方が得策とする考えが大勢を占め、関が原の義弘に
援軍を送ろうとしませんでした。ですので、義弘はわずか10
00名の小隊で戦わなければなりません。旧暦9月14日、義弘
の人徳を知る家臣はいてもたってもおられず、義弘の館があ
る伊集院まで甲冑姿で夜通し歩いて、はせ参じました。

この精神を継承しようと、旧暦9月15日、鹿児島市内の小・
中・高生は島津義弘の菩提寺である伊集院の妙円寺まで片道
20kmを歩いて詣でる「妙園寺遠行」を行っていました。ま
だ日も明けやらぬうちに出発し、昼ごろ到着。帰りは電車な
のですが、本来なら歩いて帰るのだそうです。

これは「質実剛健を旨として、あらゆる苦難に立ち向かう」
薩摩の青少年育成の象徴的行事となっていました。ですから、
鹿児島ではあえて「遠行」と呼んでいたわけです。

ところが今日では、旧暦9月15日ではなく観光を当て込んで
日曜日に開催されるようになったため、市内からの学校参加
はパタッと止まったそうです。先生たちも日曜日は休みたい
のでしょうね。

そんな軟弱な現代薩摩隼人を後目に、ラサールだけは遠行を
続けているようです。宗教が海外に進出す場合、その地での
軋轢を避けるため、自分達の理念を変えない範囲でその土地
の慣習を取り入れるものです。鹿児島の地元の学校はとっく
に止めてしまった遠行が、バテレンに息ずいていたとは。

男子校で全員寄宿舎生活という最近では希有なそのラサール
の教育方針には、少子化日本を乗り切る第三の維新を興すヒ
ントがあるように思えます。ラサール卒業生には志を持つ者
が多いようです。時代遅れの寄宿舎生活に代わるものがある
のかどうか。それとも力んで寄宿舎教育をするべきか。まだ
考えがまとまっていませんので又の機会に。
 

日本が先進国になった理由【余談2】

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 6月29日(金)21時59分59秒
  《ラサールはなぜ鹿児島に》

私には縁遠いラサールですが、「この日本有数の超エリート校が
なぜ田舎の鹿児島にあるのか」ずっと疑問でした。ここではその
ことを解明したいと思います。

ラサールとは仏出身の宣教師。彼は「学校教育による社会の改革
を志し、家財や栄職を捨てて、その生涯を青少年の教育に捧げ、
彼の遺志を継いだ人達によって、現在 、世界80カ国、約1000校」
が運営されているという。

その中で鹿児島ラサールだけが特殊で、超エリート校のようです。
日本のラサールは鹿児島(昭和25年開校)と函館(昭和35年開校)が
あります。いずれも、首都東京から遠く離れています。つまり、
教育に恵まれないであろう僻地の青少年たちを救うという世界の
ラサールと同じ目的で設立されたのですが、学長から講師に至る
まで全て外国人がやるということで、言ってみれば海外留学と同
じ教育が受けられるのではないかという期待から、戦後の貧困期
ドルレートも360円時代でしたし、日本では優秀な学生達が集ま
ることとなったようです。
 

Re 旧山川養蚕試験場4

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 6月24日(日)13時33分36秒
  善広さんが教えてくれた資料に「昭和 23 年 5 月原原蚕種の早春
および初冬飼育を行う分場として、山川飼育所が鹿児島県揖宿郡
山川町に設置。」とあります。

蚕の「原原蚕種(げんげんさんしゅ)」とは何でしょう。

日本では養蚕は神話に出てくる程古くから行われていたようです。
しかし、当初輸出していたヨーロッパでは現地品や対抗する中国
産にも品質で劣っていました。

一口に蚕といってもその品種は多種多様。今でこそ少量ブランド
は好まれるのですが、昔は生産者毎に蚕が異なりそれが少量ずつ
出荷されても困ったものだったのです。綿花のように、インド綿
とかエジプト綿とか言うように大産地毎に品質の均一化が求めら
れていました。

そこで、日本は養蚕試験場を全国に設け、生産者の技術向上を図
ると共に、研究所や飼育所を併設します。飼育所で蚕を増殖させ
これを農家に払い下げます。この増殖の時の親蚕(しんさん)を「
原蚕種(げんさんしゅ)」といいますが、この原蚕種のさらに親を
「原原蚕種(げんげんさんしゅ)」と言うそうです。

この「原原蚕種」の管理には徹底が期されました。野生蚕が混ざ
らないこと、突然変異の蚕を除去することなど、元々養蚕業が営
まれておらず、野生種もいなかった山川で、原原蚕種の育成が行
われ、それが各地の飼育所に送られていきました。

ところが、その繁栄も10年で終了します。山川にまで養蚕試験場
が作られるほど戦後復興した養蚕業でしたが、世に聞く「神武景
気 」の終焉と共に山川も閉鎖されていくのです。

神武景気 とは、朝鮮戦争特需を契機に有史(初代天皇神武)以来の
好景気(昭和29ー32年)でしたが、調子に乗った政府が3度に渡って
公定歩合を引き上げたために輸出ができなくなり、いわゆる「鍋
底景気」が到来。しかし、日本の津々浦々に施された高等教育を
受けて育った人材群の台頭で、日本はその後すぐに高度経済成長
を迎えることになるのです。
 

大阪地震

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 6月21日(木)18時26分40秒
  今回の大阪地震で・・・あれぇ、地震の名前付いて無かった
かな。義援金も募られていないし。それほどの地震で大阪の
水道が各地で寸断されたことについて、6/20付の朝日新聞は
「大阪の水道管、古すぎた…全国ワースト、地震対策が課題」
と報じています。

昨年、結婚式で久しぶりに大阪を訪れた時の思いを、当掲示
板2017年12月16日で、「大阪には木がない」、「紅葉前でも
平気で街路樹を丸裸にする。東京では考えられないこと」と
指摘したのですが、その時、もう一つの東京とは違う「あれ
ぇ ? 」が気になっていました。

それは、道路の車線のラインが消えかかっている所があまり
にも多いことです。中には完全に消えている所もあって、運
転に苦慮したことも。また、自転車走行レーンを示すペイン
トが去年からやたらと東京で増えているのですが、大阪では
ほとんど見なかったです。

東京に次ぐ巨大都市で、財政が逼迫しているからという理由
で水道管が古かったり、道路の車線を塗るのをケチっている
としたら、その他の日本全国の自治体はどうなるのでしょう。

これには関西特有の理由があるように思えます。つまり、財
政が人件費に多く割かれているのではないでしょうか。かつ
て橋下知事が目の敵にしていた左翼系組合が健在だというこ
とが原因しているかもしれません。
 

旧山川養蚕試験場②

 投稿者:クレオパトラの夢  投稿日:2018年 6月17日(日)18時55分2秒
編集済
  《富国強兵の本命は養蚕だった》

さて、明治維新で開国し欧米化を目指した新政府ですが、欧
米の講師や技術者を招くにも総理大臣と同等くらいの給料を
払ったり、洋式機械を導入するにも多額の外貨が・・・でも、
日本は貧乏でした。そこで、「富国強兵」を目指します。外
貨を得る為の貿易振興を図ります。

当初は生糸(きいと)の他にお茶・米・銅などの1次産品、明治
29年からは綿糸が加わります。でも、この綿糸は外国から南
国の作物である綿花を輸入しますので、それほどの外貨獲得
には貢献しません。国内で蚕を生産し、生糸及び絹織物を輸
出する。明治5年富岡製糸場に始まる近代日本の養蚕は、明治
・大正・昭和を通して日本の基幹産業でした。

それが鮮明になるのは大正末です。下図3は日本の二大貿易港
(横浜・神戸)の内、常にトップの座を占める神戸の輸出入品目
の変遷です。(参照pdf「2 開港~明治」「3 大正~昭和初期」)

それまで神戸における生糸輸出は皆無だったものが,大正12年、
急にトップに躍り出るのです①。これは何を意味しているか
というと、養蚕の産地が関東に限定されていたものが、関西
にも広まったということです。

古来より関東の気候風土でしか育たなかった日本の蚕が、研
究開発によって日本全国で。これによって、それまでずっと
輸入超過だった日本の貿易収支は、昭和8年に輸出超過に転
じます②。

ところが、喜んだのも束の間、昭和16年に生糸の輸出はパタ
ッと止まります③。太平洋戦争が勃発、生糸の主要輸出国は
アメリカだったのです。

そして終戦。戦後の食料難で、桑畑は作物畑へ。もう、日本
の養蚕業は無いと思われたのですが、あのアメリカが戦前通
り生糸を輸出するように要請。日本も外貨獲得の為に大々的
な養蚕業育成に着手したというわけです。それで、山川町が
養蚕学校を。

養蚕学校が先にできていたということもあるのでしょうが、
国の養蚕試験場が何故山川だったのでしょう。(つづく)
 

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