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「禅」見ました。

 投稿者:夏天  投稿日:2018年 2月21日(水)22時09分38秒
返信・引用
  道元のことがここの勉強のおかげで
ずいぶんとわかった気がします。

おもしろかった。
 

疲労子

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 2月16日(金)17時43分1秒
返信・引用
  紹介いただいた映画「禅」面白かったです。
ここで翻訳に取り組んだ分、余計に楽しめました。

宗教につきものの神秘性とか秘蹟とかとは無縁なのが道元ですね。
 

映画「禅」

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 2月 7日(水)10時32分49秒
返信・引用
  Amazon Primeに「禅」という映画があります。
まだ、途中までしか観ていないのですが、
修業について、
疲労子さんの書いていることと同様の描写がありました。
 

日本仏教史

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 2月 7日(水)07時40分0秒
返信・引用 編集済
  のダイジェストをネットで検索したら

道元は、もともと仏性があるのに何故修行が必要なのかという疑問を抱いたが、誰も答えてくれず

宋にわたっても満足できずに転々としたが

明州の天童山で、仏典を学んだり座禅を組むことだけでなく、掃除も炊事も飯を食うのも糞をするのもみな修行と学ぶ

結論:修行を悟りへの手段に落としめるのではなく、いま、ここで、わたしがなすべきことをなすのが修行であり、そこに悟り(証)がある

以上、ダイジェストのダイジェストでした。
そう考えると、ずいぶん愛妻の修行の世話になってるなあと感謝。


 

疲労子さん 宵香雨さん

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 2月 4日(日)16時40分16秒
返信・引用 編集済
  ちゃんとお二人のトライアルをフォローしているとはおもうのですが、違う点や抜けがあればご指摘を。ちなみにほんとは最初から全部一気通貫で掲載したかったんですが、この掲示板、書き込みは500行が上限で残念ながら前半は省略しました。すみません。

あと2パラグラフ!
そのためにも私もここで頭からあらためて読み込んでみます。

疲労子さんの指摘の「脱構築」はなにかとても気になります。留意します。
宵香雨さん リハビリで忙しいかもしれないですが、ぜひ全体像の提示 お願いします。
 

茶肴余さんありがとうございます

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 2月 4日(日)10時37分1秒
返信・引用
  こうやってまとめてみると、結構な分量になりますね。
まるで、川岸が勝手にうごいたみたいに。

禅問答という言葉がありますが、「みなさん、さあ修行に励みましょう!」というようなところ決して落ち着けようとしない道元の方法というのは、「脱構築」というのに近いかも知れない。

http://8430.teacup.com/hiroushi/bbs/

 

茶肴余さん

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 2月 4日(日)10時36分13秒
返信・引用
  すごい!
労作ありがとうございます。
折角なので、ちゃんと読み返してみます。

なお、8日から10日間リハビリ目的で入院します。
インターネットを使えるようにする予定ですが、どれだけできるか不明です。
 

宵香雨さん島巡り試訳パターン1

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 2月 3日(土)21時37分24秒
返信・引用 編集済
  ※宵香雨さんの試訳のうちの最新版のみをまとめてあります

(1)
仏の道を志したくらいの時には、迷いも悟りもあり、悟りへの努力があり、生き死にがあり、仏も民もいる。
修業を積んで我執が消えたなら、迷いも悟りもなく、仏も民もなく、生も死もなくなる。
そこからさらに仏の道を進んで一段階上の境地に至れば、生も死も迷いも悟りも仏も民も全部もう一度立ち現われて来る。
そんな境地に至っても、花が散るのはやっぱり悲しいし、雑草だらけになるのは嫌なものだ(別案:しかもこのような様子(修行の結果の境地)になったとしても、人間の感情がどうであれ、花は散るだけだし、草は生えるだけだ)。
(2)
俺が俺がで悟ろうとしても、迷うだけ。
生かされてある自分の姿を知ることが悟り。
迷いを迷いとするのが悟る人、悟ろう悟ろうとするのは迷う人。
悟りに悟りを重ねる人と、迷いに迷いを重ねる人がいる。
悟った人は「悟った悟った」と意識せず、
さらなる悟りを求めて行く。
ひたすらに目を凝らし、ひたすらに耳を澄ませて
対象に没入すると、自己は消え失せる。
鏡や水のようには反射しない。
(3)
仏の道を学ぶって、自分自身を学ぶこと。
自分自身を学ぶって、自分自身を忘れること。
自分自身を忘れるって、生命のルールの中に自分自身が溶け込むこと。
自分自身が溶け込んで、生命に満ちた大きな物語の中で自由になるんだ。
悟ったかどうかなんて、どうでもいい。
修業ってやつを始める時には、僕は僕であって僕ではないけれど、
生命の大きな物語の中に溶け込んだ時、僕はありのままの僕になる。
(4)
舟に乗って行くとき、目線を上目にして、舟を見ずに(別案:小舟に立ってる上に、目をキョロキョロ巡らして)岸だけを見ると、岸の方が移動しているように見誤る。
足もとまでしっかりと視野に入れて水を切って進む舟の様子をみれば(別案:顔を船べりに近づけて見ると)、舟が進んでいると分かる。
視点が定まらない状態では、自分がふらふらしていてもそれに気づかないので、万法を自分の問題として理解しようとしても、自分はちゃんとしていると思い込んでしまっているから誤ってしまう。
もし本来の自分にしっかりと向き合って修業すれば、万法がまだまだ自分のものにできていないのが明らかに分かる(別案:万法は自分のものになどできないことを悟る)。
(5)
薪は燃えて灰になる。灰は薪には戻らない。
だからと言って、灰があとで薪が先と考えてはいけない。
薪は薪。灰は灰。後先があっても、後先は切れている。
灰が薪に戻らないように、人が死んだら死んだまま。
生は生、死は死であって、生は死にならず、死は生にならない。
後先は切れている。
そうして共に一時の現象。実体ではない。空なのだ。
それを不生不滅と言うのだ。
冬も春も夏もそれぞれ一時の現象、
冬そのものが春になるとは言わない。
春そのものが夏になるとは言わない。
(6)
人が悟りを得るのは、水に月が映って、水に月が宿っているように見えるのと同じだ。
月は濡れない。水も破裂するわけじゃない。
巨大な光も、小さな水に宿り、月も大空も、草の露や一滴の水に宿る。
悟りは人を壊さない。それは、月が水に穴を穿たないのと同じことだ。
人は悟りを損なわない。それは、水の滴が天や月に影響を与えないのと同じことだ。
人の深さが、悟りの深さを決めるのだ。
どういう段階の悟りが相応しいのかは、
その人が到達しているレベルを見究め、明らかにすべきだ。
(7)
修業が足りない間ほど、分かったつもりになるものだ。
充分に分かってくればこそ、足りない面も見えて来る。
島も見えない海上では、海原は円い平面にしか見えないが、
海は円くもなければ四角でもない。
海の全てを表現し切ることなどできないのだ。
それは、宮殿のようでもあり、荘厳な装飾のようでもある。
ただ、自分の限られた眼力では、円く見えるだけなのだ。
万法もまた海のようなものだ。
世俗も出家の世界も、様々な様相があるけれど
精々修業して眼力の限りを尽くして、見て取ろうじゃないか。
万法の真の姿を知るためには、一見して見える姿だけではなく、
四方八方に様々な姿が無数にあることを知ろう。
周りだけがそうなんじゃない。
足もとも微細なものもそうだと知ろうじゃないか。
(8)
どれだけ魚が泳いでも、大海に果ては無く、どれだけ鳥が飛んでも、大空に果ては無い。
魚も鳥も、金輪際、海や空から離れて生きたことは無い。
大きく使わなければならない時には大きく使い、そうでもなければ小さく使う。
ひとつひとつ目一杯使い尽くさないという事がなく、隅々まで飛び回らないという事が無いのだが、
鳥は空でしか生きられない。魚は水の中でしか生きられない。
魚は水が命のすべてだと、僕たちは知らなければならない。
鳥は空が命のすべてだと、僕たちは知らなければならない。
鳥にとっては、鳥であることが命のすべて、魚にとっては、魚であることが命のすべて。
命が鳥のすべてであって、命が魚のすべてなのだ。
ここを起点として、さらに考えを進めよう。
悟るべきことがある。
僕たちの生命の姿は、魚や鳥のようなものだ。
それなのに、水のことを究明し、空のことを究明した後で、
水中や大空で生きて行こうとする魚や鳥がいたとしたなら、
水中にも大空にも生きて行く方法も場所も得られないだろう。
この辺のことを会得すれば、この日常が活きた仏道そのものであることが解かる。
この辺の理法を会得すれば、この日常はそのまま理法の現われであることが解かる。
こうしたこと、こうした理法は、大きいとか小さいとかとは関係ない。
自力とか他力とかといったものじゃない。
昔からあったものではなく、昨日今日ぽっと現れたというものでもない。
ただただ、このようなものとしてあるのだよ。
(9)
こんな風に、仏道を修業する時には、
悟りの一端を掴んだなら、悟りの全容を究めようとするのではなく、その一端に通じるように努め、
一つの修行法に出会ったなら、あれかこれかと手を出すのではなく、その修行を徹底するべきだ。
ここが大事なところなのだが、
修業を徹底することで得られる悟りの全貌を知ることができないのは、
仏法を究め尽くすことを生き、行動する内側にいるから、
(魚にとっての水、鳥にとっての空と同様)外側から知ることができないのだ。
修業で得たものが必ず自分の知見となって、認識できるものになると考えてはならない。
(自分の中に宿ってはいるが、読み解けるとは限らない。)
悟りは現れるのだが、自分に解りやすいものが必ずしも現われるというわけではなく、ましてぱっと解ることができるというわけではない。
 

疲労子さん島巡り試訳

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 2月 3日(土)21時35分42秒
返信・引用 編集済
  (1)
時代は釈迦だ!
迷ったり悟ったり、座ったり走ったり、生きたり死んだり、仏も民も生き生きしている。
釈迦の教えのない時!
迷いも悟りもなんもなく、仏も民も生きてるか死んでるかわからない。
仏の道はもともと豊かなところからジャンプしてきたものだから、生も死も迷いも悟りも仏も民も全部あるのさ。
何でもありとはいえ、花が散るのはやっぱり悲しいし、雑草だらけになるのは嫌だ。
(2)
身から出るは迷い、世から来るが悟り。
仏は迷いを悟りの糧とし、人は悟りを迷いの糧とす。
悟りのなかになお悟るもの、迷いのなかになお迷うもの。
この仏の仏となりて仏知らず、それでも仏は仏  (松山千春風に歌う)
全力できみの瞳を見つめても、吐息ひとつも聞き漏らさず、
きみのカラダをぎゅっと抱いても、それでも二人はわかりあえない。
水面に月は映るのに、僕を見れば僕だけ、きみをみればきみだけ、ひとつになれず  (福山雅治風に)
(3)
仏の道を学ぶというは、つまり俺らを学ぶこと、
僕ってなあにと問い続けたなら、いつしか俺らは忘れられ、
忘れらちまった俺というもの、世界のあまねくすべての中に、まちがいない!
俺のカラダはあんたのカラダ、俺の心はあんたの心
識っているのに識らんぷり、識らんぷりしてどんどん悟る。
俺たちは、宇宙の果てを探していたら、地球の縁をずり落ちて、落ちてしまえば俺らがルール、
僕らはいつの間にか世界の匂いになっていた~(最後は友部正人風に歌う)
(4)
舟たびのまなこらして岸みれば、岸のうつるとわれのあやまる
わがまなこしたしく舟につけたれば、舟のすすむをわれは知るなり
みだれたる心と体もつ身には、この世はコギト・エル・ゴスム
なれどああ修行、アンリと旅しシャリに帰し、湯舟にどっぷり浸かりたれば
舟の漕人(コギト)は湯気にまぎれて
(5)
たき木は燃えて灰となるけど、灰はたき木に戻らない
だけども灰を後と思うな、たき木も先なんかじゃない
たき木はたき木、たき木の定め、ましてや灰にはなれない
灰はたき木に戻らぬように人の死もあ~あ~
(間奏)
生くるは生くる、死ぬるは死ぬる、それぞれそれぞれのルール
あなたの望む輪廻転生など、どこにもな~い~
春には春の、夏には夏の、秋冬それぞれの定め
冬が春に変わるのではなく、ただ春が来~る~
(6)
悟りとは、たとえば水に映る月
満月は水に映って濡れもせず、
水面は月を蔵して波も立てない
月も星も天空も、ただ一滴の草露に
月は悟り、人は水面
悟りは、人に宿りて、人を変えず
人は、悟りを宿して、悟りを変えず
ただ、小さな水には小さな月が、大きな水面には大きな月が映るのみ
屈折率など解析して、悟りの本当の大きさ深さを知るがよい
(7)
知らない人ほど分かった風で、知ってる人は分からないと思うの
海って舟からぐるりを眺めている分にはただ丸いだけじゃん
でもさあ、8KカメラとかGPS衛星とか使ってくわしく調べたら
竜宮城とかウナギの産卵場所とか、色んなものが見えてくると思うの
けど、あたいがただ目をこらしたところで、海はやっぱ丸いだけなのよね
世の中のことって大体そんなものだと思うんだ
ロック馬鹿の兄貴も、韓流追っかけの姉貴も、みてるもの全然違うし
たまに、ブラタモリとか池上彰のなんちゃらとかみてると、へえーって感じ
考えてみれば、世の中どころか、あたい自身のことだって、よくわかんないんだよねえ
(8)
鯛やヒラメがいくら泳いでも海ってきりがないし、
アヒルや白鳥がどんだけ飛んでも空の果てには行きつかないのよね。
うんと遠くへ行くやつも、近くでちまちま暮らすやつもいるけど
お魚は水中、鳥は空中、そこはずっと変わんない。
水の中を泳ぎまくって、空を飛び回って、どんだけーってくらい遊びまくって
あたい、この辺で知らないとこありませんからーってツッパってみても
かもめはかもめっつーか、この街を出たらもう無理って感じ
魚も鳥もそんな感じだと思うんだ。
じっさい、魚が水から出たら乾いて死んじゃうし、小鳥が地面に下りてボーッとしてたら、猫にやられちゃう
水イノチ!空イノチ!って感じよね。
このあたいだって魚さんや鳥さんとマジ変わんない。
この街がどんな街で、どんな奴が仕切ってるかよくよく調べてから住むなんて、
そんなかったるいことやってらんない
つーか、気がついた時にはもうこの街に住んでたっつーの。
この街で育って、ダチがいて、カレシができたり別れたり、仲間とつるんで悪さしたりしてきたけど
なんつうか、あたいの探し物って、マジこの街の中でしか見つかんねーんじゃないのかな。
(9)
だからさあ、イケてるって思うファッションリーダーのこと全チェックして上から下から生き方まで完コピするのもありだし、「私ってカットの人!」って言ってハサミ一筋何十年ってのもありだと思うんだ。
どっちを選んでも、ひとつのポリシーでずっとやってたら、いつの間にか見えてくる世界があると思うのよね。
でもさあ、だからと言って何でもシコシコやり続けたら、ファッションのリクツが必ずわかるかっていうと、それも嘘っぽい。
苦節うん十年して、ファッションの神がが降りてキター!っていうこともあるだろうけど、でも、それってホントに私の人生にカンケーあんのかなあ。
あってもなくてもどっちでもいいようなことなんじゃないの。
 

残りふたつの前に後半まとめ

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 2月 3日(土)21時34分39秒
返信・引用
  (5)【原文】
①たき木,はひ(灰)となる,さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
②しかあるを,灰はのち,薪はさきと見取すべからず。
③しるべし,薪は薪の法位 *1 に住して,さきありのちあり。前後ありといへども,前後際断せり。
④灰は灰の法位にありて,のちありさきあり。
⑤かのたき木、はひとなりぬるのち,さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち,さらに生とならず。
⑥しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生 *2 といふ。
⑦死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅 *2 といふ。
⑧生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。
⑨たとへば,冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

*1 法位
元々は、『妙法蓮華経』「方便品」にある「是法住法位」から来た用語で、「是の法、法位に住す」と訓ずる。意味は法の必然性、法性や真如を意味する。
不変の理法は、現象的事物を確立する位であるため、このようにいうが、道元禅師は事物そのものがある事実を評する語として用いる。存在のあるがままの姿。真理。
*2 不生不滅
仏教用語。何ものも生ぜず,また滅びないということ。輪廻の世界から解放された世界観に立つと,絶対的な実在はないということを表現するときに用いる言葉。空の観念を補足するものであり,涅槃のあり方を否定的に説明する語法。――ブリタニカ国際大百科事典
仏語。生じることも滅することもなく、常住不変であること。悟りの境界をいう。常住。――デジタル大辞泉
生じもせず滅びもせず常住不変であること。真如の世界のあり方。また、この世を真如の現れとみなす立場から、この世の真の姿のあり方。 ⇔ 生滅  ――大辞林

(5)【現代語訳】
①薪は灰になれば、決して薪にもどることはありません。
②それを灰は後、薪は前であると見てはいけません。
③知ることです、薪は、薪のままで前があり後があるのであり、前後があるとしても、前後は断ち切れているのです。
④同様に、灰は灰のままで、後があり前があるのです。
⑤その薪が灰になった後には、決して薪にならないように、人が死んだ後には、決して生にもどることはありません。
⑥それを、生が死になったとは言わないのが、仏法の定められた決まりです。このために不生(生ぜず)と言うのです。
⑦また死が生にならないことも、仏法の定められた教えです。このために不滅(滅せず)というのです。
⑧生も一時の姿であり、死も一時の姿です。
⑨例えば、冬と春のようなものです。人は冬そのものが春になるとは思わないものであり、また春そのものが夏になるとは言わないものです。

(5)【河出訳】
①薪は灰になったなら、ふたたび薪となることはありえない。
②この事情を灰はのちで薪はさきだと理解してはいけない。
③知っていなければならないことは、薪は薪としての現象であって、さきがありのちがある。前後はあったとしても、その前後はきれていて現在のままである。
④灰は灰としての現象であって、これもまた、のちがありさきがある。
⑤薪が灰になってしまったならば、ふたたび薪とならないように、人が死んだならばふたたび生きた人にはならない。
⑥こうした事情について、生が死になると云わないのは、存在という現象は空であって実体がないのだという理にかなったことである。
生が死になると云わないのは、すべて存在という現象は空であって実体でないからである。
こうしたところから、仏法では、実体のない生を現象として不生と云うのである。
⑦死が生とならないことも、仏法によって現われる全現象のなかのことである。
そのゆえに死にも実体がないからこれを不滅と云うのである。
実体のないものに滅があるはずもないから、死は不滅と云うほかはない。
⑧生と死とは対立していない。つまりは、生も時に等しい現象である。死も時に等しい現象である。
⑨たとえば、冬と春とのようなものだ。人は冬が春となるとは思わない。春が夏となるとは云わないのだ。

(5)【島巡り訳(A案)】
たき木は燃えて灰となるけど、灰はたき木に戻らない
だけども灰を後と思うな、たき木も先なんかじゃない
たき木はたき木、たき木の定め、ましてや灰にはなれない
灰はたき木に戻らぬように人の死もあ~あ~
(間奏)
生くるは生くる、死ぬるは死ぬる、それぞれそれぞれのルール
あなたの望む輪廻転生など、どこにもな~い~
春には春の、夏には夏の、秋冬それぞれの定め
冬が春に変わるのではなく、ただ春が来~る~

※訳者の視点
普通は
薪が燃えて灰に変化すると言い
生き物の生が死に変化する
季節が冬から春に変化する
と考えるところを
あえて
変化する主体である可燃物、生命体、季節空間を否定し、
薪、灰、生きていること、死んでいること、冬、春を、移行不能な別々の一時的な現象としてとらえる
不生不滅とは、移行主体などなく、現象が連なっているだけなのだということ
死と滅が紛らわしいのは、
死が現象つまりステージとしての死と、
移行のニュアンスすなわち生成死滅としての死=滅として使われる場合とがあるからじゃないかな。
批判対象との関係で
死んだら極楽に行けるだろうか
また人間として転生できるだろうか
というような不安につけこんだ不安ビジネスと戦う原理主義みたいな感じではないのかな。
一方では、お前はすでに極楽にいる!的な親鸞流
他方に、只管打坐の道元流があるのかと


(5)【島巡り訳(B案)】
薪は燃えて灰になる。灰は薪には戻らない。
だからと言って、灰があとで薪が先と考えてはいけない。
薪は薪。灰は灰。後先があっても、後先は切れている。

灰が薪に戻らないように、人が死んだら死んだまま。
生は生、死は死であって、生は死にならず、死は生にならない。
後先は切れている。
そうして共に一時の現象。実体ではない。空なのだ。
それを不生不滅と言うのだ。

冬も春も夏もそれぞれ一時の現象、
冬そのものが春になるとは言わない。
春そのものが夏になるとは言わない。


(6)【原文】
①人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。
②ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、
③全月も弥天 *1 も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
④さとりの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし。
⑤人のさとりを罣礙 *2 せざること、滴露の天月を?礙せざるがごとし。
⑥ふかきことはたかき分量なるべし。
⑦時節の長短は、大水小水を検点し、天月の広狭を辨取 *3 すべし。

*1 弥天(みてん)
  須弥山世界。満天。
*2 罣礙(けいげ)
  さわりになること。さまたげること。邪魔すること。
*3 辨取
  弁別し、明瞭にすること。

(6)【現代語訳】
①人が悟りを得ることは、水に月が宿るようなものです。月は濡れず、水も壊れません。
②月は広く大きな光ですが、寸尺の水に宿るのです。
③満月も満天も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿るのです。
④悟りが人を傷つけないことは、月が水を穿たないようなものです。
⑤人が悟りを妨げないことも、一滴の露が天空の月の宿ることを妨げないようなものです。
⑥水の深さは月の高さの分量があるということです。
⑦月を宿す時節が長いか短いかは、大水や小水の月を点検して、その天空の月の大きさを知りなさい。

(6)【別の現代語訳】
⑥一滴の水にこめられた深さは、天月の高さと同様である。
⑦悟りの時に果たして長短があるのかどうかについて、
水に大小があるのかどうかをよく検分し、
天月に広狭があるのかどうかをよくわきまえて、
理解しなくてはならない。

(6)【河出訳】
①人が覚りを得るのは、水に月が宿るようなものである。そのとき、月は濡れもしない、水が壊れることもない。
②それは広く大きな光ではあるが、ほんの少しの水にも宿り、
③月のすべては天のすべては草の露に宿り、一滴の水にも宿る。
④覚りが人を壊さないのは、月影が水を穿つことのないようなものである。
⑤一滴の水に天月のすべてが覆い妨げられることなく宿るようなものである。
⑥水に映る影の深さは天の高さと等しい。
⑦時間の長さと短さは、無量の時も一瞬の時も時であり、それは大きな水と小さな水のようなものだと考え、大きな水には大きな月と広い空が映り、小さな水には小さな月と狭い空が映るようなものだと、努めて会得しなければならない。

(6)【島巡り訳(A案)】
悟りとは、たとえば水に映る月
満月は水に映って濡れもせず、
水面は月を蔵して波も立てない
月も星も天空も、ただ一滴の草露に
月は悟り、人は水面
悟りは、人に宿りて、人を変えず
人は、悟りを宿して、悟りを変えず
ただ、小さな水には小さな月が、大きな水面には大きな月が映るのみ
屈折率など解析して、悟りの本当の大きさ深さを知るがよい

(6)【島巡り訳(B案)】
人が悟りを得るのは、水に月が映って、水に月が宿っているように感じられるのと同じだ。
月は濡れない。水も破裂するわけではない。
巨大な光であったとしても、ちいさな水に宿る。
丸ごとの月も大空も、草の露にも一滴の水にも宿る。

悟りが人を壊さないのは、月が水に穴を穿たないのと同じだ。
人が悟りを変なものにしないのは、
水の滴が天や月に妙な影響をあたえないのと同じだ。
一滴の浅い水ではあるけれど、天月の高さを映す深さがある。

(悟りのすべてを得るのだが、すべてが理解できるわけではない。)
人の修業の深さが悟りの高度さを決める。
悟りのある段階までの期間の長短は、映す器(修業の段階)の大小を見究めて、
天月の広狭(悟りのレベル)の相応しい高さをわきまえて理解しなさい。
(悟りに悟りを重ねるよう、修業&座禅に励みなさい。)

※訳者の視点
パラグラフ(2)-③「さらに悟上に得悟する漢あり、」と辻褄が合う

(6)【島巡り訳(C案)】
人が悟りを得るのは、水に月が映って、水に月が宿っているように見えるのと同じだ。
月は濡れない。水も破裂するわけじゃない。
巨大な光も、小さな水に宿り、月も大空も、草の露や一滴の水に宿る。

悟りは人を壊さない。それは、月が水に穴を穿たないのと同じことだ。
人は悟りを損なわない。それは、水の滴が天や月に影響を与えないのと同じことだ。

人の深さが、悟りの深さを決めるのだ。
どういう段階の悟りが相応しいのかは、
その人が到達しているレベルを見究め、明らかにすべきだ。


(7)【原文】
①身心に法いまだ参飽 *1 せざるには,法すでにたれりとおぼゆ。
②法もし身心に充足すれば,ひとかたは,たらずとおぼゆるなり *2 。

③たとへば,船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、
さらにことなる相みゆることなし。
④しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方 *3 なるにあらず、のこれる海徳 *4 つくすべからざるなり。
⑤宮殿のごとし、瓔珞(ようらく)のごとし。
⑥ただ、わがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
⑦かれがごとく、万法またしかあり。
⑧塵中格外 *5 ,おほく樣子 *6 を帶せりといへども、参学眼力 *7 のおよぶばかりを見取會取するなり。
⑨万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界 *8 あることをしるべし。
⑩かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下 *9 も一滴もしかあるとしるべし。

*1 参飽
  修行が充分身に付くこと。
*2 ひとかたは,たらずとおぼゆるなり
  一面には物足りなさを感じる。
*3 方
  四角
*4 海徳
  海が海としてある功徳。同じ水でも立場によって異なる姿に見え、異なる作用をする。人間には水として見え水として用いるが、魚は住処と見て、住処として使用する。そのような海が持つ功徳。
*5 塵中格外
  世間と出世間と。世間的に見ても仏法から見ても。
  塵中=五欲六塵の凡夫の世界。世俗の世界。 格外=出世間。出家の世界。
*6 おほく樣子を帶せり
  複雑多様である。
*7 参学眼力
  修行して開けてくる眼力。
*8 よもの世界
  四方の世界。
*9 直下(じきげ)
  自分の足もと。自分自身。

(7)【河出訳】
①身心に仏法が満ちあふれていない状態においては、法がすでに充足していると感じるものだ。
②仏法がもし心身に満ちているときには何かが足りていないと感じるものである。

③たとえば、船に乗って陸も見えない海原に出て四方を見ると、海はただ丸いとだけ見えて、そのほかの姿に見えることがない。
④しかし、この大海は、丸いものではなく、四角なものでもなく、目には見えない海の様相は尽くしきれない姿をもっている。
⑤それは宮殿のように瓔珞のように見事なものである。
⑥しかし、眼のおよぶばかりには、ただ丸いと見えるだけである。
⑦万象もまたそのようである。
⑧一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相があるけれど、学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。
⑨森羅万象にある真の姿を知るためには、目に見える形の他に、残りの形相は多く極まりなく、そのように十方世界が成り立っていることを知らねばならない。
⑩己の周囲のみがこのようであるわけではない。己れ自身も微小な存在もこのようであると知らねばならない。

(7)【島巡り訳(A案)】
知らない人ほど分かった風で、知ってる人は分からないと思うの
海って舟からぐるりを眺めている分にはただ丸いだけじゃん
でもさあ、8KカメラとかGPS衛星とか使ってくわしく調べたら
竜宮城とかウナギの産卵場所とか、色んなものが見えてくると思うの
けど、あたいがただ目をこらしたところで、海はやっぱ丸いだけなのよね
世の中のことって大体そんなものだと思うんだ
ロック馬鹿の兄貴も、韓流追っかけの姉貴も、みてるもの全然違うし
たまに、ブラタモリとか池上彰のなんちゃらとかみてると、へえーって感じ
考えてみれば、世の中どころか、あたい自身のことだって、よくわかんないんだよねえ

(7)【島巡り訳(B案)】
修業が足りない間ほど、分かったつもりになるものだ。
充分に分かってくればこそ、足りない面も見えて来る。
島も見えない海上では、海原は円い平面にしか見えないが、
海は円くもなければ四角でもない。
海の全てを表現し切ることなどできないのだ。
それは、宮殿のようでもあり、荘厳な装飾のようでもある。
ただ、自分の限られた眼力では、円く見えるだけなのだ。
万法もまた海のようなものだ。
世俗も出家の世界も、様々な様相があるけれど
精々修業して眼力の限りを尽くして、見て取ろうじゃないか。
万法の真の姿を知るためには、一見して見える姿だけではなく、
四方八方に様々な姿が無数にあることを知ろう。
周りだけがそうなんじゃない。
足もとも微細なものもそうだと知ろうじゃないか。


(8)【原文】
①うを(魚)水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
②しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
③只用大のときは使大なり。
④要小のときは使小なり。
⑤かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく *1 、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す。
⑥魚もし水をいづればたちまちに死す。
⑦以水爲命 *2 しりぬべし、以空為命 *3 しりぬべし。
⑧以鳥為命あり、以魚為命あり。
⑨以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。
⑩このほかさらに進歩あるべし。
⑪修証あり、その寿者命者あること *4 、かくのごとし。
⑫しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。
⑬このところをうれば、この行李(あんり) したがひて現成公案 *5 す。
⑭このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり *6 。
⑮このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、
さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。


*1 頭頭に邊際をつくさずといふ事なく
  ものごとの一つ一つに仏法の真実がつくされていないことはなく。
*2 以水為命
  魚は水を命として生きること。
*3 以空為命
  鳥は空を命として生きていること。
*4 その寿者命者あること、かくのごとし
  我々のほんとうの寿命や生命の姿はこのようなものである。
*5 行李(あんり) したがひて現成公案す
  日常生活は活きた仏道そのもの(現成公案)となる。  行李=日常生活。
*6 このみちをうれば,この行李したがひて現成公案なり
  この仏法の真理を悟ることができればその人の日常生活は活きた仏道そのもの(現成公案)となるだろう。

(8)【河出訳】
①魚が水中を泳ぐとき、泳いでも泳いでも果てしはなく、鳥が空を飛ぶとき、いくら飛翔しても空に果てしはない。
②魚も鳥も昔から水中や空中をはなれたことはない。
③ただ用いる必要さが大きいときは使い方もそれだけ大きい。
④必要さが小さいときは使い方は小さいのだ。
⑤このようにして、それぞれに即したその境涯を使い尽くさないことはなく、処々に飛び回らないことがないけれども、鳥がもし空から出ればたちまちに死ぬ。
⑥魚がもし水を出ればたちまちに死ぬ。
⑦魚は水が命のすべてであることを知っているだろう。鳥は空が命のすべてであることを知っているだろう。
⑧鳥にとっては、自分が命のすべてであり、魚にとっては、自分が命のすべてである。
⑨命が鳥のすべてであろう。命が魚のすべてであろう。
⑩このほかさらに思惟を進めるべきである。
⑪日常の中に覚りはあるのであって、寿命のある者の生きていることは、このようである。
⑫そうであるのを、水を究め知り、空を究め知ってから、水や空のなかに生きようと考える魚や鳥があったならば、それらは、水中にも空中にも生きてゆく方法を会得するはずがない、生きる場を得ることができない。
⑬こうした場であることを会得すれば、日常の現実は、そのまま真理の現成であることが理解される。
⑭こうした理法が会得されれば、この日常の現実はそのまま理法の現われであることが理解される。
⑮こうした生きる場所とは、大きい小さいといったものとはかかわりがない。主客といったものではないし、過去からあったものではなく、目の前に現れるものではないことから、真理の現れとはこのようなものとしてあるのだ。

(8)【島巡り訳(A案)】
鯛やヒラメがいくら泳いでも海ってきりがないし、
アヒルや白鳥がどんだけ飛んでも空の果てには行きつかないのよね。
うんと遠くへ行くやつも、近くでちまちま暮らすやつもいるけど
お魚は水中、鳥は空中、そこはずっと変わんない。
水の中を泳ぎまくって、空を飛び回って、どんだけーってくらい遊びまくって
あたい、この辺で知らないとこありませんからーってツッパってみても
かもめはかもめっつーか、この街を出たらもう無理って感じ
魚も鳥もそんな感じだと思うんだ。
じっさい、魚が水から出たら乾いて死んじゃうし、小鳥が地面に下りてボーッとしてたら、猫にやられちゃう
水イノチ!空イノチ!って感じよね。
このあたいだって魚さんや鳥さんとマジ変わんない。
この街がどんな街で、どんな奴が仕切ってるかよくよく調べてから住むなんて、
そんなかったるいことやってらんない
つーか、気がついた時にはもうこの街に住んでたっつーの。
この街で育って、ダチがいて、カレシができたり別れたり、仲間とつるんで悪さしたりしてきたけど
なんつうか、あたいの探し物って、マジこの街の中でしか見つかんねーんじゃないのかな。

(8)【島巡り訳(B案)】
どれだけ魚が泳いでも、大海に果ては無く、どれだけ鳥が飛んでも、大空に果ては無い。
魚も鳥も、金輪際、海や空から離れて生きたことは無い。
大きく使わなければならない時には大きく使い、そうでもなければ小さく使う。
ひとつひとつ目一杯使い尽くさないという事がなく、隅々まで飛び回らないという事が無いのだが、
鳥は空でしか生きられない。魚は水の中でしか生きられない。
魚は水が命のすべてだと、僕たちは知らなければならない。
鳥は空が命のすべてだと、僕たちは知らなければならない。
鳥にとっては、鳥であることが命のすべて、魚にとっては、魚であることが命のすべて。
命が鳥のすべてであって、命が魚のすべてなのだ。
ここを起点として、さらに考えを進めよう。
悟るべきことがある。
僕たちの生命の姿は、魚や鳥のようなものだ。
それなのに、水のことを究明し、空のことを究明した後で、
水中や大空で生きて行こうとする魚や鳥がいたとしたなら、
水中にも大空にも生きて行く方法も場所も得られないだろう。
この辺のことを会得すれば、この日常が活きた仏道そのものであることが解かる。
この辺の理法を会得すれば、この日常はそのまま理法の現われであることが解かる。
こうしたこと、こうした理法は、大きいとか小さいとかとは関係ない。
自力とか他力とかといったものじゃない。
昔からあったものではなく、昨日今日ぽっと現れたというものでもない。
ただただ、このようなものとしてあるのだよ。


(9)【原文】
①しかあるがごとく、人もし佛道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。
②これにところあり、みち通達せるによりてしらるるきは *1 の、しるからざるは、
このしることの、仏法の究尽 *2 と同生し、同参する *3 ゆゑにしかあるなり。
③得処 *4 かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。
④証究 *5 すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず *6 、見成これ何必なり *7 。

*1 しらるるきは
  知ることができる辺際。知ることができる全体。
*2 仏法の究尽(ぐうじん)
  仏法の究極、仏法の真実のところ。
*3 同生し、同参する
  不二一体になる。
*4 得処
  得一法通一法の修行(坐禅)で得た処。
*5 証究
  得一法通一法の修行(坐禅)で証究した処。
*6 密有かならずしも現成にあらず
  親密なものはかならずしも見えるものではない。密有=親密な存在。
*7 見成これ何必(かひつ)なり
  必ずしも見えるものではない。何必=何ぞ必ずしも。

「見成これ何必なり」とは、現実に目前に現れている事物は皆尽十方界真実であるから、その時その時の尽十方界の環境に素直に随順して、全て受け入れていくことだという事である。
そしてこれが、現成公案の信仰だと考えられている。
①しかあるがごとく、人もし佛道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。
②これにところあり、みち通達せるによりてしらるるきは *1 の、しるからざるは、
このしることの、仏法の究尽 *2 と同生し、同参する *3 ゆゑにしかあるなり。
③得処 *4 かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。
④証究 *5 すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず *6 、見成これ何必なり *7 。

(9)【河出訳】
①このように、人がもし仏道を修業するときには、一つの法を会得することによって全法に通じるのであり、一つの行に出会うことによって全ての行を修めるのである。
②そのための場はあるのであって、道は本来知られているのに、その場がはっきりしないのは、この知るということが、仏法を究めることとともにあり、知るということはそれと同時であるからである。
③得た知というものが必ず自己の知見となって、自分に認識されるものだと考えてはならない。
④究極の覚りは必ず現れるのではあるが、仏法が普遍の究極に存在しているという真実はかならずしも顕在化しないし、見てとれるように現実化することはかならずしもないのである。

(9)【ひろさちや訳】
それと同様、人がもし仏道歩むのであれば、一つの教えに出会えばそれをしっかりと 学べばよいのであり、
たまたま一つの修行に出会えばそれをしっかりと修すればよいのだ。
そうすればそこに自分が仏法に生きる処があり、悟りへの道が通じている。
けれども我々は、無限の悟りの世界全体を知ることはできない。
なぜかといえば、悟りの世界全体を我々が知ることができるのは、我々が仏法を究め尽くした瞬間に、それと同時にその知が実現するからだ。
我々が仏道を歩む過程でひとつひとつ学んだことが、自分の知見となり、そして思慮深い人間になる、というようなことはないのだ。
究極の悟りは、修行によってすみやかに体験されるけれども、有と無に分かれる以前の自分が体験されるとは限らない。
そもそもそのような体験が必要か否か。
必要はないだろう。

※ひろさちやの視点
ひとはちょっとした悟りを生かして人生を歩めばいいのであり、まず究極の悟りを得ようというのはちがう。仏教のために人生があるのではなく、人生のために仏教があるのだということを、道元は言いたかったのだと

(9)【島巡り訳(A案)】
だからさあ、イケてるって思うファッションリーダーのこと全チェックして上から下から生き方まで完コピするのもありだし、「私ってカットの人!」って言ってハサミ一筋何十年ってのもありだと思うんだ。
どっちを選んでも、ひとつのポリシーでずっとやってたら、いつの間にか見えてくる世界があると思うのよね。
でもさあ、だからと言って何でもシコシコやり続けたら、ファッションのリクツが必ずわかるかっていうと、それも嘘っぽい。
苦節うん十年して、ファッションの神がが降りてキター!っていうこともあるだろうけど、でも、それってホントに私の人生にカンケーあんのかなあ。
あってもなくてもどっちでもいいようなことなんじゃないの。

(9)【島巡り訳(B案)】
このように、仏道を修業する際には、
一つの法を会得すればその法の原理に通じ、
一つの行に出会えばその行を修めるのだ。
こういうことを言うには根拠がある。
本来、道はすべて通じて知られているのに、それが分からないのは、
この知るということが、仏法を究め尽くすことと一体になってしまい、
意識するこができないからそういうことになるのだ。
修業で得たものが必ず自己の知見となって、
自分に認識されるものだと考えてはならない。
究極の覚りは必ず現れるのではあるが、
自己に密接なものが必ずしも現われるというものではなく、
必ずしも見てとることができるわけではない。

(9)【島巡り訳(C案)】
こんな風に、仏道を修業する時には、
一つの法を会得したならその法に通じ、
一つの行に出会ったならその行を修めるのだ。
ここが大事なところなのだが、
道に通じることによって知られることの輪郭が分からないのは、
この知るということが、仏法を究め尽くすことと一体になってしまって
意識的に認識することができないからなのだ。
修業で得たものが必ず自分の知見となって、
認識できるものになると考えてはならない。
究極の覚りは必ず現れるのだが、
自分に密接なものが必ずしも現われるというものではなく、
まして必ず見てとることができるというわけではない。

(9)【島巡り訳(D案)】
こんな風に、仏道を修業する時には、
悟りの一端を掴んだなら、悟りの全容を究めようとするのではなく、その一端に通じるように努め、
一つの修行法に出会ったなら、あれかこれかと手を出すのではなく、その修行を徹底するべきだ。
ここが大事なところなのだが、
修業を徹底することで得られる悟りの全貌を知ることができないのは、
仏法を究め尽くすことを生き、行動する内側にいるから、
(魚にとっての水、鳥にとっての空と同様)外側から知ることができないのだ。
修業で得たものが必ず自分の知見となって、認識できるものになると考えてはならない。
(自分の中に宿ってはいるが、読み解けるとは限らない。)
悟りは現れるのだが、自分に解りやすいものが必ずしも現われるというわけではなく、ましてぱっと解ることができるというわけではない。
 

だからこそ

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月27日(土)12時01分47秒
返信・引用 編集済
  「葬式仏教」ではない「生きかた」としての「仏教」の「道元さんのpureな考え」を知りたいという欲求がおこるんですね
なんとか「島巡り訳」で理解したいです。
道元さんも人間だから……、って相当ややこしい人だわな

――再確認!宵香雨さん疲労子さんによると

31歳の道元のイメージ・・・
   真面目な人には間違いないでしょう。
   京都の上級貴族、公卿の家の生まれ。14歳で出家。
   比叡山から弾圧を受け越前に移る。鎌倉で半年間武士を教化。

仏教を原点から捉え直してやろうというような熱さと自負がある、エネルギッシュな青年

宵香雨さん 投稿日:2017年11月10日(金)10時53分53秒


井上ひさしの「道元の冒険」の設定によれば

当時は、山法師(比叡山)が権力を持っていて、加持祈祷を中心とする密教を押しつけていた。
これに対して、念仏のみでよいとする浄土真宗が弾圧され、
続いて、只管打坐の禅宗も弾圧されかかっているというものでした。

疲労子さん 投稿日:2017年12月17日(日)12時00分18秒
 

失礼しました

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月26日(金)13時28分33秒
返信・引用
  そこが、主旨ですよね。
「そういう要素が道元さんのころの教えにも内包されてた」のは、
道元の本意ではなかったとしても、見逃せないところかも知れません。

宗派として生き残るために、そこを活用する継承者(?)が、
「大衆迎合」を強めて行くというのは、
浄土真宗ほどではなくても曹洞宗にもあったのでしょうね。

道元としては、自らが正統と自負する「真正」仏教を
正しく伝えたくて「正法眼蔵」を書いたんでしょうが、難し過ぎます。

流通している「現代語訳」も、すんなりと納得できるものが見当たりません。
 

あ!

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月25日(木)22時46分2秒
返信・引用
  宵香雨さん ありがとうございました。
ご指摘の部分はなんとなくわかってきました。道元さんの自負もたしかにそうだったとおもいます。
ただわたしの「下衆の勘繰り」は、「~そのプロセスにコミットすることが大事」という読みが「大衆迎合」につながるクセがある、あるいはそれを呼び込む隙があって、いまの葬儀に見える「「血脈の裔」に置いてあげるよ」という甘さ(簡単さ というべきかもしれません)につながっているのでは、、というほんとに下衆な解釈のことでして――自分が理解できなかったことへのもどかしさへの八つ当たりかも。
道元さんも曹洞宗の方もごめんなさい。
 

下衆の勘繰りなどではなく

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月25日(木)17時39分43秒
返信・引用
  「悟りを突き詰めることが目的ではなく、そのプロセスにコミットすることが大事」
という読みは、そのとおりではないでしょうか。
また、
旧勢力への批判はもちろん強くあったと思いますが、
道元には自らが「お釈迦さん直結のライン」、正当な仏教を継承するものだという自負も
強くあったのではないでしょうか。
 

妄言

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月24日(水)23時02分43秒
返信・引用 編集済
  勝手に思い込んでいたわたしがわるいのかもしれないのですが、
 曹洞禅は只管打坐で悟りを求めるんだと
 当然、人はその究極を求めるべきだ
と道元さんは言ってるんじゃなかったのか……と。
でもいよいよこの章の終盤、ゴール直前まで来て、突如
 修業で得たものが必ず自分の知見となって、
 認識できるものになると考えてはならない――宵香雨訳
とか、
 有と無に分かれる以前の自分が体験されるとは限らないし、(略)
 必要はないだろう――ひろさちや訳
なんて、そんな殺生な。
悟りを求め萬法に添うよう修行せよと言ってきたのではないの?道元さん!
という感じです(笑)。
そこに光明。夏天さんが道元さんも「民衆」オリエンテッドだと。
今日曹洞宗のお葬式に出たんです。導師さまのお経は、悔い改め、仏に帰依せよ 仏法僧を大事にせえよ、に続いて、面白かったのが「けちみゃく」という言葉とその考え方でした。
釈迦から何十代下がって中国に、さらに道元禅師がいらっしゃって、さらに何十代を経て自分(導師)へと至る「けちみゃく血脈」がここで貴方につながるよ と導師は故人に語りかけたんです(と思う)。血脈とは「仏教用語。師から弟子へと仏教の精髄を受継ぐ関係。師弟の系譜」ですから、道元経由お釈迦さん直結のラインがあなたに通じているんよ、貴方は悔い改め帰依し仏法僧を大事にしてるから、と。
ここんところで下衆の勘繰りなんですが、それなりに僧を敬っていれば「血脈の裔」に置いてあげるよという現在の曹洞宗ほど甘くはないでしょうけど、ひょっとしてそういう要素が道元さんのころの教えにも内包されてたんではないか、と。
たとえば、「悟りを突き詰めることが目的ではなく、そのプロセスにコミットすることが大事で、そのプロセスは師が導く」という「選ばれた個」ではない「衆」オリエンテッドな方向性の構図があるのではないか、なんて。

すみません、自分の理解の浅さを棚上げしての妄言でした。
 

鎌倉新仏教は、

 投稿者:夏天  投稿日:2018年 1月23日(火)21時20分40秒
返信・引用
  民衆にわかる、凡夫を受け入れる教義だったと記憶しています。
親鸞の主張は、結構人口に膾炙していますが、
道元の主張は今までまったく知らなかったので
いろんな意味で新鮮です。

京都のお寺も追われたというので、結構旧勢力から
うとまれたのだと思います。
平安仏教、密教などと正反対の教義だったよかなと勝手に思いこんでいる次第です。

とりあえず、難しくない。座ればよいという教義だったような。
念仏を唱えれば、肉食を生業とする人々、
悪人さえの往生できる。
その流れの中にあるのかなと思います。
 

ひろさちや訳

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月22日(月)19時07分9秒
返信・引用 編集済
  手詰まり感もあるので、Kindleで入手したひろさちや訳を写してみました。
河出訳とは随分違うような。


それと同様、人がもし仏道歩むのであれば、一つの教えに出会えばそれをしっかりと 学べばよいのであり、
たまたま一つの修行に出会えばそれをしっかりと修すればよいのだ。
そうすればそこに自分が仏法に生きる処があり、悟りへの道が通じている。
けれども我々は、無限の悟りの世界全体を知ることはできない。
なぜかといえば、悟りの世界全体を我々が知ることができるのは、我々が仏法を究め尽くした瞬間に、それと同時にその知が実現するからだ。
我々が仏道を歩む過程でひとつひとつ学んだことが、自分の知見となり、そして思慮深い人間になる、というようなことはないのだ。
究極の悟りは、修行によってすみやかに体験されるけれども、有と無に分かれる以前の自分が体験されるとは限らない。
そもそもそのような体験が必要か否か。
必要はないだろう。

訳者によれば、ひとはちょっとした悟りを生かして人生を歩めばいいのであり、まず究極の悟りを得ようというのはちがう。仏教のために人生があるのではなく、人生のために仏教があるのだということを、道元は言いたかったのだと。


時代背景を考えると、権力志向となり、仏教エリートとたらんとしている山法師勢力を、こういう比喩と反語表現で批判していたのかもしれません。結局、越前に追放されるわけですが。
 

再挑戦

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月21日(日)12時10分55秒
返信・引用
  【宵香雨試訳 その3】
こんな風に、仏道を修業する時には、
悟りの一端を掴んだなら、悟りの全容を究めようとするのではなく、その一端に通じるように努め、
一つの修行法に出会ったなら、あれかこれかと手を出すのではなく、その修行を徹底するべきだ。

ここが大事なところなのだが、
修業を徹底することで得られる悟りの全貌を知ることができないのは、
仏法を究め尽くすことを生き、行動する内側にいるから、
(魚にとっての水、鳥にとっての空と同様)外側から知ることができないのだ。
修業で得たものが必ず自分の知見となって、認識できるものになると考えてはならない。
(自分の中に宿ってはいるが、読み解けるとは限らない。)

悟りは現れるのだが、自分に解りやすいものが必ずしも現われるというわけではなく、
ましてぱっと解ることができるというわけではない。
 

さぼっているわけではありません

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月20日(土)21時49分43秒
返信・引用 編集済
  わからないのです……。原文もおふたりの訳もすべて読んで、必死に考えています。
でもわかりません。道元は「何がどや」と云うてるのでしょう。
もう少し考える時間 あるいは もっと理解するすべをください。よろしくお願いします。
 

アカン

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月19日(金)20時38分21秒
返信・引用
  もやもやしています。

【宵香雨試訳 その2】
こんな風に、仏道を修業する時には、
一つの法を会得したならその法に通じ、
一つの行に出会ったならその行を修めるのだ。

ここが大事なところなのだが、
道に通じることによって知られることの輪郭が分からないのは、
この知るということが、仏法を究め尽くすことと一体になってしまって
意識的に認識することができないからなのだ。

修業で得たものが必ず自分の知見となって、
認識できるものになると考えてはならない。

究極の覚りは必ず現れるのだが、
自分に密接なものが必ずしも現われるというものではなく、
まして必ず見てとることができるというわけではない。
 

桃尻語訳つづき2

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月19日(金)07時37分36秒
返信・引用 編集済
  だからさあ、イケてるって思うファッションリーダーのこと全チェックして上から下から生き方まで完コピするのもありだし、「私ってカットの人!」って言ってハサミ一筋何十年ってのもありだと思うんだ。
どっちを選んでも、ひとつのポリシーでずっとやってたら、いつの間にか見えてくる世界があると思うのよね。
でもさあ、だからと言って何でもシコシコやり続けたら、ファッションのリクツが必ずわかるかっていうと、それも嘘っぽい。
苦節うん十年して、ファッションの神がが降りてキター!っていうこともあるだろうけど、でも、それってホントに私の人生にカンケーあんのかなあ。
あってもなくてもどっちでもいいようなことなんじゃないの。


@「何必」のニュアンスをどうとるかで苦戦しました。
 

苦戦!!

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月18日(木)17時37分19秒
返信・引用
  【宵香雨試訳 その1】
このように、仏道を修業する際には、
一つの法を会得すればその法の原理に通じ、
一つの行に出会えばその行を修めるのだ。
こういうことを言うには根拠がある。
本来、道はすべて通じて知られているのに、それが分からないのは、
この知るということが、仏法を究め尽くすことと一体になってしまい、
意識するこができないからそういうことになるのだ。
修業で得たものが必ず自己の知見となって、
自分に認識されるものだと考えてはならない。
究極の覚りは必ず現れるのではあるが、
自己に密接なものが必ずしも現われるというものではなく、
必ずしも見てとることができるわけではない。
 

次のパラグラフです

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月18日(木)13時56分51秒
返信・引用
  【原文】
しかあるがごとく、人もし佛道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。
これにところあり、みち通達せるによりてしらるるきはの、しるからざるは、
このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。
得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。
証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

【注】
しらるるきは:知ることができる辺際。知ることができる全体。
仏法の究尽(ぐうじん):仏法の究極、仏法の真実のところ。
同生し、同参する:不二一体になる。
得処:得一法通一法の修行(坐禅)で得た処。
証究:得一法通一法の修行(坐禅)で証究した処。
密有:親密な存在。
密有かならずしも現成にあらず:親密なものはかならずしも見えるものではない。
何必(かひつ):何ぞ必ずしも。
見成これ何必なり:必ずしも見えるものではない。
「見成これ何必なり」とは、現実に目前に現れている事物は皆尽十方界真実であるから、
その時その時の尽十方界の環境に素直に随順して、全て受け入れていくことだという事である。
そしてこれが、現成公案の信仰だと考えられている。

【河出訳】
このように、人がもし仏道を修業するときには、
一つの法を会得することによって全法に通じるのであり、
一つの行に出会うことによって全ての行を修めるのである。
そのための場はあるのであって、道は本来知られているのに、
その場がはっきりしないのは、この知るということが、
仏法を究めることとともにあり、知るということはそれと同時であるからである。
得た知というものが必ず自己の知見となって、自分に認識されるものだと考えてはならない。
究極の覚りは必ず現れるのではあるが、
仏法が普遍の究極に存在しているという真実はかならずしも顕在化しないし、
見てとれるように現実化することはかならずしもないのである。
 

桃尻語訳つづき

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月15日(月)18時49分13秒
返信・引用 編集済
  鯛やヒラメがいくら泳いでも海ってきりがないし、
アヒルや白鳥がどんだけ飛んでも空の果てには行きつかないのよね。
うんと遠くへ行くやつも、近くでちまちま暮らすやつもいるけど
お魚は水中、鳥は空中、そこはずっと変わんない。
水の中を泳ぎまくって、空を飛び回って、どんだけーってくらい遊びまくって
あたい、この辺で知らないとこありませんからーってツッパってみても
かもめはかもめっつーか、この街を出たらもう無理って感じ
魚も鳥もそんな感じだと思うんだ。
じっさい、魚が水から出たら乾いて死んじゃうし、小鳥が地面に下りてボーッとしてたら、猫にやられちゃう
水イノチ!空イノチ!って感じよね。
このあたいだって魚さんや鳥さんとマジ変わんない。
この街がどんな街で、どんな奴が仕切ってるかよくよく調べてから住むなんて、
そんなかったるいことやってらんない
つーか、気がついた時にはもうこの街に住んでたっつーの。
この街で育って、ダチがいて、カレシができたり別れたり、仲間とつるんで悪さしたりしてきたけど
なんつうか、あたいの探し物って、マジこの街の中でしか見つかんねーんじゃないのかな。
 

残りのパラグラフは、

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月15日(月)10時13分2秒
返信・引用
  あと3つです。
次のパラグラフは、「うを(魚)水をゆくに、」のパラグラフと関連があるようなので、
次までは済ませてみませんか?
 

いよいよか!

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月14日(日)23時29分39秒
返信・引用 編集済
  これが「現成公案」のクライマックス?! きっとそうですよね。
宵香雨さんが指摘していた
   人間も万法の内にあり、人間の中に既に万法が宿っている
が見えてきそう!

「現成公案」もあとわずかなように思えるのですが、どうします?!
まずは最後まで行っちゃいます?
あるいはこのクライマックスをベースに、これまでを見直しつつまとめ部分に挑みます?
どっちがやりやすそうですか?
 

【試訳】です

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月12日(金)10時52分48秒
返信・引用 編集済
  【宵香雨試訳】
どれだけ魚が泳いでも、大海に果ては無く、どれだけ鳥が飛んでも、大空に果ては無い。
魚も鳥も、金輪際、海や空から離れて生きたことは無い。
大きく使わなければならない時には大きく使い、そうでもなければ小さく使う。
ひとつひとつ目一杯使い尽くさないという事がなく、隅々まで飛び回らないという事が無いのだが、
鳥は空でしか生きられない。魚は水の中でしか生きられない。
魚は水が命のすべてだと、僕たちは知らなければならない。
鳥は空が命のすべてだと、僕たちは知らなければならない。
鳥にとっては、鳥であることが命のすべて、魚にとっては、魚であることが命のすべて。
命が鳥のすべてであって、命が魚のすべてなのだ。
ここを起点として、さらに考えを進めよう。
悟るべきことがある。
僕たちの生命の姿は、魚や鳥のようなものだ。
それなのに、水のことを究明し、空のことを究明した後で、
水中や大空で生きて行こうとする魚や鳥がいたとしたなら、
水中にも大空にも生きて行く方法も場所も得られないだろう。
この辺のことを会得すれば、この日常が活きた仏道そのものであることが解かる。
この辺の理法を会得すれば、この日常はそのまま理法の現われであることが解かる。
こうしたこと、こうした理法は、大きいとか小さいとかとは関係ない。
自力とか他力とかといったものじゃない。
昔からあったものではなく、昨日今日ぽっと現れたというものでもない。
ただただ、このようなものとしてあるのだよ。
 

楽しみです。

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月12日(金)10時50分6秒
返信・引用
  茶肴余さん、その構想、面白そうです。

次のパラグラフの切りどころが無く、長くなりました。

【原文】
うを(魚)水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。
かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、
處處に踏翻せずといふことなしといへども、
鳥もしそらをいづればたちまちに死す。
魚もし水をいづればたちまちに死す。
以水爲命しりぬべし、以空為命しりぬべし。
以鳥為命あり、以魚為命あり。
以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。
このほかさらに進歩あるべし。
修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。
しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、
水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。
このところをうれば、この行李(あんり) したがひて現成公案す。
このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。
このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、
さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。


頭頭に邊際をつくさずといふ事なく:ものごとの一つ一つに仏法の真実がつくされていないことはなく。
以水為命:魚は水を命として生きること。
以空為命:鳥は空を命として生きていること。
その寿者命者あること、かくのごとし:我々のほんとうの寿命や生命の姿はこのようなものである。
行李(あんり):日常生活。
行李(あんり) したがひて現成公案す:日常生活は活きた仏道そのもの(現成公案)となる。
このみちをうれば,この行李したがひて現成公案なり:この仏法の真理を悟ることができれば
その人の日常生活は活きた仏道そのもの(現成公案)となるだろう。

【河出訳】
魚が水中を泳ぐとき、泳いでも泳いでも果てしはなく、
鳥が空を飛ぶとき、いくら飛翔しても空に果てしはない。
魚も鳥も昔から水中や空中をはなれたことはない。
ただ用いる必要さが大きいときは使い方もそれだけ大きい。
必要さが小さいときは使い方は小さいのだ。
このようにして、それぞれに即したその境涯を使い尽くさないことはなく、
処々に飛び回らないことがないけれども、鳥がもし空から出ればたちまちに死ぬ。
魚がもし水を出ればたちまちに死ぬ。
魚は水が命のすべてであることを知っているだろう。
鳥は空が命のすべてであることを知っているだろう。
鳥にとっては、自分が命のすべてであり、魚にとっては、自分が命のすべてである。
命が鳥のすべてであろう。命が魚のすべてであろう。
このほかさらに思惟を進めるべきである。
日常の中に覚りはあるのであって、寿命のある者の生きていることは、このようである。
そうであるのを、水を究め知り、空を究め知ってから、
水や空のなかに生きようと考える魚や鳥があったならば、
それらは、水中にも空中にも生きてゆく方法を会得するはずがない、
生きる場を得ることができない。
こうした場であることを会得すれば、日常の現実は、そのまま真理の現成であることが理解される。
こうした理法が会得されれば、この日常の現実はそのまま理法の現われであることが理解される。
こうした生きる場所とは、大きい小さいといったものとはかかわりがない。
主客といったものではないし、過去からあったものではなく、
目の前に現れるものではないことから、真理の現れとはこのようなものとしてあるのだ。



 

このパラグラフ

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月10日(水)20時18分15秒
返信・引用 編集済
  ふたつのいい訳にめぐまれたなあとわたしもおもいます。
宵香雨さんが前のパラグラフの訳で
  悟りのすべてを得るのだが、すべてが理解できるわけではない。
  悟りに悟りを重ねるよう、修業&座禅に励みなさい。
という解釈を教えてくれましたが、そういう点を、続くこのパラグラフが締めているわけですね。

ところで、桃尻語風でも宵香雨訳でもない別のアプローチについて少し。
まだ読み切れてないんだけど、この前 高橋源一郎の「ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた」という本を買いました。
フリースクールを舞台に「くに」をつくるプロジェクトをはじめるんだけど、「肝太先生」(カント)や「理想先生」(ルソー)とかも登場。
たとえば「憲法」は、主人公の男の子の家の冷蔵庫に貼ってあるその家のルールとして、まずは語り始められるですけどね。
そういうアナロジーで「憲法」や「国家」ってどういうものかが語られはじめ、そのうち「それたち」はそもそもそんなものなのかとストンと落ちるような感じがしてくる――むろん夏天さんの言うように「抜け落ちてしまうのもの」もあるでしょうけど。
島巡り訳がひと段落したら、そこで得られた解釈をこういうアプローチで別ストーリーにすることもできるかも、と思った次第。
 

確かに

 投稿者:夏天  投稿日:2018年 1月10日(水)18時30分32秒
返信・引用 編集済
  桃尻語訳、わかりやすい。
根気のない私でも読めます。

逆行した宵香雨さんの訳もわかりやすい。
やはり、凡人や根気のない人に
最後まで読んでもらえる具体性と言葉遣いがよい!

と思いました。

まあ、それで抜け落ちてしまうものもあるかもしれないけれど・・・。
 

おもしろい!

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月10日(水)13時56分37秒
返信・引用 編集済
  疲労子さんの「桃尻語訳風」、力作ですね。

逆行する感じですが、逐語訳的なものを

【宵香雨試訳】
修業が足りない間ほど、分かったつもりになるものだ。
充分に分かってくればこそ、足りない面も見えて来る。

島も見えない海上では、海原は円い平面にしか見えないが、
海は円くもなければ四角でもない。
海の全てを表現し切ることなどできないのだ。

それは、宮殿のようでもあり、荘厳な装飾のようでもある。
ただ、自分の限られた眼力では、円く見えるだけなのだ。

万法もまた海のようなものだ。
世俗も出家の世界も、様々な様相があるけれど
精々修業して眼力の限りを尽くして、見て取ろうじゃないか。

万法の真の姿を知るためには、一見して見える姿だけではなく、
四方八方に様々な姿が無数にあることを知ろう。
周りだけがそうなんじゃない。
足もとも微細なものもそうだと知ろうじゃないか。
 

超訳 桃尻語訳風

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月 9日(火)07時56分18秒
返信・引用 編集済
  知らない人ほど分かった風で、知ってる人は分からないと思うの

海って舟からぐるりを眺めている分にはただ丸いだけじゃん
でもさあ、8KカメラとかGPS衛星とか使ってくわしく調べたら
竜宮城とかウナギの産卵場所とか、色んなものが見えてくると思うの
けど、あたいがただ目をこらしたところで、海はやっぱ丸いだけなのよね
世の中のことって大体そんなものだと思うんだ
ロック馬鹿の兄貴も、韓流追っかけの姉貴も、みてるもの全然違うし
たまに、ブラタモリとか池上彰のなんちゃらとかみてると、へえーって感じ
考えてみれば、世の中どころか、あたい自身のことだって、よくわかんないんだよねえ
 

宇治川沿いにある

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月 7日(日)15時51分24秒
返信・引用
  道元ゆかりの興聖寺にお参りしてきました。
もともとは深草にあり、比叡山によって弾圧された道元が越前に去ってから荒れ果てていたものを、江戸時代に復興したものとのこと。
普段は、座禅会も受け付けているのが、今日は新年の催しのためなしでした。

正法眼蔵につながるものがないかいお思いましたが、発見できず。
でも若い僧や尼さんが多く、現役の寺という感じでした。

茶肴余さんの図、最高です。
今後の議論にも何度も登場するのを期待。
 

次です

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月 7日(日)15時08分39秒
返信・引用 編集済
  【原文】
身心に法いまだ参飽せざるには,法すでにたれりとおぼゆ。
法もし身心に充足すれば,ひとかたは,たらずとおぼゆるなり。

たとへば,船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、
さらにことなる相みゆることなし。
しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。
宮殿のごとし、瓔珞(ようらく)のごとし。
ただ、わがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
かれがごとく、万法またしかあり。
塵中格外,おほく樣子を帶せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。
万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。
かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

注:
参飽:修行が充分身に付くこと。
ひとかたは,たらずとおぼゆるなり:一面には物足りなさを感じる。
方:四角。
海徳:海が海としてある功徳。同じ水でも立場によって異なる姿に見え、異なる作用をする。
人間には水として見え水として用いるが、魚は住処と見て、住処として使用する。そのような海が持つ功徳。
塵中:五欲六塵の凡夫の世界。世俗の世界。
格外:出世間。出家の世界。
塵中格外:世間と出世間と。世間的に見ても仏法から見ても。
おほく樣子を帶せり:複雑多様である。
参学眼力:修行して開けてくる眼力。
よもの世界:四方の世界。
直下(じきげ):自分の足もと。自分自身。

【河出訳】
身心に仏法が満ちあふれていない状態においては、
法がすでに充足していると感じるものだ。
仏法がもし心身に満ちているときには何かが足りていないと感じるものである。

たとえば、船に乗って陸も見えない海原に出て四方を見ると、
海はただ丸いとだけ見えて、そのほかの姿に見えることがない。
しかし、この大海は、丸いものではなく、四角なものでもなく、
目には見えない海の様相は尽くしきれない姿をもっている。
それは宮殿のように瓔珞のように見事なものである。
しかし、眼のおよぶばかりには、ただ丸いと見えるだけである。
万象もまたそのようである。
一塵の中にも形に捉われぬものにも、多くの様相があるけれど、
学び学んで眼力の届く限りを見取り会得するのである。
森羅万象にある真の姿を知るためには、目に見える形の他に、
残りの形相は多く極まりなく、
そのように十方世界が成り立っていることを知らねばならない。
己の周囲のみがこのようであるわけではない。
己れ自身も微小な存在もこのようであると知らねばならない。

 

わかりやすい

 投稿者:夏天  投稿日:2018年 1月 7日(日)12時00分10秒
返信・引用
  図にしてもらうと助かる  

疲労子さん 宵香雨さん

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月 7日(日)09時28分48秒
返信・引用 編集済
  まあこれは私の備忘のようなもんです。
ただそいつぁ違うよということがあろうかとおもいますので、指摘ください。よろしくお願いします。
で、ここらあたりを共有することで、次へ、そして「現成公案」全体へ……ということに進んではいかがでしょう。
部分>>全体>>部分>>全体……
 

わたしの疑問も

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月 7日(日)00時25分59秒
返信・引用
  あまり絵にする意味はなかったけど  

次は宵香雨さん

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月 7日(日)00時25分12秒
返信・引用
  「万法に融合」説  

お二人の説を

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月 7日(日)00時24分13秒
返信・引用 編集済
  絵にしてみました。
まずは疲労子さん。内部自然発生説
  肉髻が出来る理由も?!
 

人間も万法

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月 4日(木)18時11分34秒
返信・引用
  人間も万法の内にあり、人間の中に既に万法が宿っているということではないでしょうか。
宿っているとはいうものの、「自我」やら「我執」やらのせいで感じ取ることは難しい。

修業や座禅を重ねることで、万法に一体化して感じ取って行く。
「外部注入」でも「自然発生」でもなく、
「悟り」に溶け込んで行くとでもいう感じ。
あるいは自分の中にあらかじめ書き込まれてあった
「人知を超えたところにある大きな物語」を読み取って行くという感じでは。
 

あるいは

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月 4日(木)11時59分51秒
返信・引用 編集済
  お前はすでに悟っている

悟りというのは、何か「悟り」という名詞的なものを得るのではなく、「悟る」という動詞であり、そういう意味での「自然発生」とは考えられないかな。
人の本質という見方は否定して、道元さんは悟りを悟るという現象のみを重視しているような気がする。

http://8430.teacup.com/hiroushi/bbs/

 

というか

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月 3日(水)23時07分32秒
返信・引用
  釈尊の教えという音楽にインスパイアされて

思わず演奏したアドリブが悟り

といって、釈尊の音楽は変わらない

私のなかのジャズが深められることはあっても

あるいは、先進国に似せた解放ではなく、そこに刺激された第三世界独自の論理での革命。

http://8430.teacup.com/hiroushi/bbs/

 

疲労子さん

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月 3日(水)22時34分40秒
返信・引用 編集済
  凄く低レベルの質問なんだけど、このパラグラフでは 「人=水」「悟り=天+月/光」という比喩で記述されていますよね。そこから疲労子さんは、
>道元は、月と水のたとえから、
> 「悟り」は
>  外からもたらされるもの(外部注入論)などではなく、
>  修行によって人の内側で自然発生するのだ
>と言っている。
としてますよね。
ところがね、素直に考えたり、ここまでの記述を見ると、
    月ぬれず、水やぶれず。
    月の水をうがたざる
    滴露の天月を罣礙せざる
というように、水と光は相互に反応しません。
つまり、光が水の表面に投射されたに過ぎない!と解釈できます。
ということは、このパラグラフ(最後の2行は除くにしても)にあっては
    人が悟る といってもそれは表層が変わるにすぎず、
    (この段階では)悟りは人の本質は変えるものではない
つまり、「自然発生もしない」ということを言っている……なんて解釈は乱暴にすぎますか?
 

トンデモなことを連想

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月 3日(水)11時24分54秒
返信・引用 編集済
  ここまでの議論から、レーニンの外部注入論を連想してしまった。

「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。

この「社会主義意識」を「悟り」に置き換えると僕には理解しやすかったりして・・・

これに対して、あたかもフランツ・ファノンやゲバラのように・・・

道元は、月と水のたとえから、「悟り」は外からもたらされるもの(外部注入論)などではなく、修行によって人の内側で自然発生するのだと言っている。
インテリゲンチャ=仏陀の理論を独占する既成仏教が衆生に悟りをもたらすのではないとアジテーションしてるのでは。

だから、権力指向の山法師をはじめとした既成仏教勢力に異端としてにくまれ、他方、純粋な修行の徒には支持されたのかも。

ちょっと酔っ払ってるかも。

http://8430.teacup.com/hiroushi/bbs/

 

正直なところ

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月 3日(水)10時49分55秒
返信・引用
  また分からなくなってきましたが…。

【宵香雨訳】
人が悟りを得るのは、水に月が映って、水に月が宿っているように見えるのと同じだ。
月は濡れない。水も破裂するわけじゃない。
巨大な光も、小さな水に宿り、月も大空も、草の露や一滴の水に宿る。

悟りは人を壊さない。それは、月が水に穴を穿たないのと同じことだ。
人は悟りを損なわない。それは、水の滴が天や月に影響を与えないのと同じことだ。

人の深さが、悟りの深さを決めるのだ。
どういう段階の悟りが相応しいのかは、
その人が到達しているレベルを見究め、明らかにすべきだ。
 

今朝寝床の中で

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月 2日(火)16時34分24秒
返信・引用
  考えていて、【試訳】のように考えれば、
パラグラフ(2)-③「さらに悟上に得悟する漢あり、」と辻褄が合うと思い至った次第です。
 

さとりが外から

 投稿者:疲労子  投稿日:2018年 1月 2日(火)14時51分56秒
返信・引用
  入ってくるような、名詞的なものではなくて、ただ私が悟り、それが深まるという感じなのかな。

http://8430.teacup.com/hiroushi/bbs/

 

そう!ブラボ!

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月 2日(火)11時47分55秒
返信・引用 編集済
  ふかきことはたかき分量なるべし。
の主語を従来の訳のように、水や月にしちゃうとわけがわからなくなるのです。

人の修業の深さが悟りの高度さを決める。

で腑に落ち、そのためには
(悟りのすべてを得るのだが、すべてが理解できるわけではない。)
という解説が必要! さすが宵香雨さん。すごい!
そうであるから、「時節」の訳も単なる「時間」なのではないという訳。これI agree
わたしは前出の「諸法の仏法なる時節」があってのものと考えたくて、これも自分は「諸法の仏法なる」が腑に落ちてないけれど「悟りのある段階までの期間」ということだと、なるほど!と。
これから演繹できるかもと期待。
いいですね。


 

まだこなれていませんが、

 投稿者:宵香雨  投稿日:2018年 1月 2日(火)10時55分36秒
返信・引用
  こういうことではいかがでしょうか。

【試訳】
人が悟りを得るのは、水に月が映って、水に月が宿っているように感じられるのと同じだ。
月は濡れない。水も破裂するわけではない。
巨大な光であったとしても、ちいさな水に宿る。
丸ごとの月も大空も、草の露にも一滴の水にも宿る。

悟りが人を壊さないのは、月が水に穴を穿たないのと同じだ。
人が悟りを変なものにしないのは、
水の滴が天や月に妙な影響をあたえないのと同じだ。
一滴の浅い水ではあるけれど、天月の高さを映す深さがある。

(悟りのすべてを得るのだが、すべてが理解できるわけではない。)
人の修業の深さが悟りの高度さを決める。
悟りのある段階までの期間の長短は、映す器(修業の段階)の大小を見究めて、
天月の広狭(悟りのレベル)の相応しい高さをわきまえて理解しなさい。
(悟りに悟りを重ねるよう、修業&座禅に励みなさい。)
 

それでも

 投稿者:茶肴余  投稿日:2018年 1月 1日(月)23時57分45秒
返信・引用
  ごめん、それでも最後の2行がわかりません。
これって欠落していないのかな? 
 

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